新 武蔵野人文資源研究所日報

旧武蔵野人文資源研究所日報・同annex移行統合版


あまりに流行しているので便乗して作成

参考サイト:http://d.hatena.ne.jp/utiliti/20061226



視点・論点まん延するニセ出版」


みなさんは、「ニセ出版」という言葉を耳にしたことがあるでしょうか。


これは、見かけは出版のようだけれども、実は、出版とはとても言えないもののことで、「請負出版」や「自費出版」などとも呼ばれます。


『そんなものがどこにあるんだ』とお思いの方も、例として、倒産した碧天舎や、文●社や、新●舎などの名前を挙げれば、『ああ、そういうもののことか』と納得されるかもしれません。それとも、かえって、『え?』と驚かれるでしょうか。


例えば、皆さんもよくご存知のように、『あなたの原稿を本にします』と盛んに言われ、ひところは大手版元ももこぞって別会社を作るほどのブームになりました。そういうものが流行したのは、もちろん、自分の原稿に自信がある人が多かったからでしょう。テレビや雑誌などでも頻繁に取り上げられましたから、すぐに出版されるのを疑えという方が無理な話かもしれません。

しかし、実は、あなたの原稿が出版に値するという客観的な根拠は、ほぼない、といってよいのです。あのブームは、まったくの空騒ぎでした。大手版元までが、なぜ、その空騒ぎに乗ってしまったのか。きちんと検証しておく必要があります。


いまは、「出版社との協同出版」というものに、人気が出てきているようです。しかし、実のところ、そういう出版形態を提案されたところで、せいぜいお守り程度の効果しか期待できません。


いま、このような、出版のようで出版ではない、「ニセ出版」が蔓延しています。


こういった「ニセ出版」のなかに、企画や懸賞に関わるものがあります。その話をしたいと思います。


よく知られている例の一つは、『原稿が無いあなたも、出版が可能です』といういわゆる「無原稿出版」企画です。しかし、この手法に、信頼しうる根拠はないのです。その意味で、これもまた「ニセ出版」です。


もちろん、どんな企画にもそれなりの種類がありますから、きちんとした原稿が出来上がることはあるでしょう。しかし、それだけなら、当初から原稿の無いことを前提とすることはありません。出版ができるかどうかとは、まったく別の話なのです。


ところが、この説は、本を出したい人々に広く受け入れられています。全国各地で、出版社の広告が新聞等に出されているようです。


もちろん、原稿を書けないので困っているという人は多いでしょうし、何かを訴えたいとか、自分の足跡を残したいという人も何とかしたいと思っているのでしょう。
そういうみなさんにとって、「無原稿出版」企画が一見、福音に思えたことは分かりますが、出版的根拠のないものに飛びついても、仕方がありません。


そもそも、原稿が無いのを何とかしたいというのは、出版の問題ではなく、自分自身の問題だったはずです。原稿が無いのを困ると考えるなら、書けるようにきちんと問題を整理し、果たしてそれが書くに値するものなのか考えるべきでしょう。原稿が出来ない始末を出版社に求めようとしてはいけません。


もう一つ、今度は、懸賞にまつわる奇妙な話を紹介しましょう。


出版社の主宰する懸賞に応募し、落選したものの、非常によくできていて惜しいから少々お金を出して出版しませんか、というのです。
落選というのは価値がないから落選しているので、もちろん、そんな馬鹿なことはありません。


落選したからにはその事実を受け入れなければいけません。よくできていて惜しいなら書き直して出版に値するものにするか、没にして新たな原稿を書けばいいのです。どうしてそこでお金を出すという話になるのでしょうか。皆自分の原稿は必死になって書いたものですから、少しでも価値が認められるとついふらふらと信じ込んでしまうのでしょう。金を出せなどと言われて、いい大人が信じるような話ではないはずです。ところが、これが広く信じられています。『もうちょっとで入選だったのだ』といわれると、それだけで、『いい話』だと思い込んでしまう人は、意外に多いらしいのです。


これらの手法が、いくつかの出版社で、自費出版企画の獲得に使われていることが問題になっています。顧客を捕まえるのに格好の材料と思われたようです。


しかし、本当にいいのでしょうか。


この出版は、たくさんの問題をはらんでいます。


まず第一に、明らかに商業道徳的に誤っています。活字離れや書籍売上低下が言われる今、商売だからといって、ここまで著者を騙すような話を、普通の出版であるかのように言っていいはずがありません。


しかし、それ以上に問題なのは、出版の根拠を、原稿の価値に求めようとしていることです。


原稿の価値は絶対的な出来不出来が決めるものですから、その結果は、あくまでも、出版の可否に直接的に繋がります。
「懸賞に落選している」という状況を冷静に考えてみれば、「惜しい」という話から「金を」に行くおかしさは分かるはずです。


「無原稿出版」が出版の手段を出版社に求めるものだったのと同様、ここでは、出版の根拠を出版社のあやふやな「惜しい」という言辞に求めようとしています。それは出版社に対して多くを求め過ぎです。


原稿の作成も落選という事実の客観的意味も、著者が自分の頭で考えなくてはならないことであって、出版社に教わるものではないはずです。


さて、「ニセ出版」が受け入れられるのは、出版に見えるからです。つまり、ニセ出版を信じる人たちは、出版が嫌いなのでも、出版に不審を抱いているのでもない、むしろ、出版という事業を信頼しているからこそ、信じるわけです。


たとえば、自費出版がブームになったのは、『原稿が無くてもできる、出版社との協同出版で出せる』という説明を多くの人が「出版的常識」として受け入れたからです。


しかし、仮に、編集者に、『原稿が無くてもできる、出版社との協同出版で出せる、っていいのですか』とたずねてみても、単純な二分法では答えてくれないはずです。


『出版といってもいろいろあるので、中にはいいものも悪いものもあるでしょうし、自費出版といっても取りすぎればなにか悪いことも起きるでしょうし、ぶつぶつ……』と、まあ、歯切れの悪い答えしか返ってこないでしょう。


それが出版的な誠実さだからしょうがないのです。


ところが「ニセ出版」は断言してくれます。


『原稿が無くても出せるといったら出せるし、費用を出していただければ原稿は作れるのです。

また、惜しくも受賞は逃しましたが、あなたの原稿は非常にいい出来です。

 多少のお金さえ出していただければ、出版は可能です。』


このように、「ニセ出版」は実に小気味よく、物事に白黒を付けてくれます。この思い切りの良さは、本当の出版には決して期待できないものです。


しかし、パブリックイメージとしての出版は、むしろ、こちらなのかもしれません。『出版とは、様々な企画に対して、曖昧さなく白黒はっきりつけるもの』出版にはそういうイメージが浸透しているのではないでしょうか。


そうだとすると、「ニセ出版」は出版よりも出版らしく見えているのかもしれません。


たしかに、なんでもかんでも単純な二分法で割り切れるなら簡単でしょう。しかし、残念ながら、世界はそれほど単純にはできていません。その単純ではない部分をきちんと考えていくことこそが、重要だったはずです。そして、それを考えるのが、本来の「原稿の作成」であり「企画の検討」なのです。二分法は、思考停止に他なりません。


「ニセ出版」に限らず、出せるのか出せないのかといった二分法的思考で、結論だけを求める風潮が、社会に蔓延しつつあるように思います。そうではなく、私たちは、著者と編集者の『より良い原稿を作成して出版可能な原稿を作成する思考のプロセス』、それを大事にするべきなのです。




……それでは皆様本年も当研究所を御贔屓にありがとうございました恒例本年の10冊は明年早々発表致します良きお年を